豊橋の歴史

江戸時代までは吉田という地名でした

豊橋市のシンボル・吉田城

豊橋市域では約10万年前のものと考えられる人骨が発見されています。この頃は石を割って作った槍形や斧形などの打製石器を使い動物を狩ったり木を切ったりして暮らしていました。 豊川(とよがわ)河口近くの瓜郷(うりごう)町に瓜郷遺跡があります。瓜郷遺跡は約2,000年前の竪穴式住居跡で、弥生時代中期から古墳時代初期までの集落で、 豊川沖積地の湿地を利用した水田が開かれていたと考えられています。 国の史跡にも認定されており標識遺跡として貴重な存在です。出土品や復元住居が豊橋市美術博物館に収蔵・展示されていますので、興味のある方はぜひ行ってみてください。 古代、豊橋地方は三河国に属し、市域南部には渥美郡、市域北部には八名郡が置かれており、市内では渥美郡の豪族の館跡や市道遺跡、市道廃寺などが見つかっています。
戦国時代には吉田城などいくつもの山城が築かれました。 1564年徳川家康が吉田城を攻略して家臣の酒井忠次を城主に置きますが、豊臣秀吉が天下を取ると家康は関東に移封され、池田輝政が城主として城地の拡張や城下町の整備を行います。 ちなみに、吉田城は1505年に築城された今橋城が改称されたもので、現在は昭和29年に復興された鉄櫓が豊川のほとりに建っています。 吉田城跡は豊橋公園内にあり、今でも多くの市民に親しまれています。豊橋公園は今橋町にあり、日曜・祝日のみ一般開放されています。
江戸時代に入ると現在の市街地の元となる吉田宿と、東海道のもう一つの宿場町の二川宿が置かれました。 明治に入ると吉田の町は豊橋と改称されその後豊橋県となり、明治5年に愛知県に合併されました。 そして1889年に豊橋町、1906年に市制施行により今の豊橋市が誕生しました。 その後も東海道線の開通に伴って豊橋駅が開かれるなど近代化への道を歩んできました。
また豊橋には歩兵第十八聯隊などの軍隊をもつ軍都、養蚕業による蚕都としての一面もありました。 1945年6月に米軍の空襲を受けた市街地は焼け野原となりましたが、戦後の市街地の戦災復興は計画的に行われ、商業・工業・住宅地域がはっきり分けられた近代都市として生まれ変わりました。